「のだふじ」の復興活動

昭和46年、大阪福島ライオンズクラブ創立メンバーの1人,フジタ病院長(当時)故藤田正躬氏のもとに、ある日、玉川の歯科医伯方時夫氏が『玉川百年のあゆみ』を持って訪ねて来た。そこには『野田には,野田フジという有名なフジがあって豊臣秀吉の頃から吉野の桜を観に行こうか、野田の藤を眺めに行こうか』と言われていたと書かれていた。
これをきっかけにライオンズクラブの「のだふじ」復興活動が始まった。最初は「のだふじ」なるフジを探すことからの手探りであった。
植物関係の本も、にわかに勉強したところ、日本にはノダフジとヤマフジがあるらしいことが判った。玉川町に藤家があるからあそこへ行こうと、故藤加恵氏に面会しフジの苗木の提供を依頼した所,快諾された。入手した苗をどうして増殖したらよいか調べるために大阪市公園課を訪問した。たまたま公園課長は、藤田氏の旧制高等学校柔道部の数年後輩だった。増殖のやり方を調べてもらうよう依頼したところ,「野田フジは大阪市が保存して増やさねばならない事業だと、市の文書にある。市の公園課の仕事として長居公園で増やします」との思いがけない返事が帰ってきた。
この様な経過を経て、野田フジの復興活動は、フジの原木が切り払われる直前に、ライオンズクラブの手で始まった。大阪市公園部では、約束通り2本の原木から100本の移植用苗をとり山フジの幹に接ぎ木し、これを長居公園に植えた。しかし、このフジは白藤であったのでメンバー一同がっかりした。白藤はノダフジ系ではあるが、花房が長く伸びない。
試行錯誤の末、宇治の平等院のフジが一番となった。それを植木屋さんに頼んで畑で育ててもらった。こうしてフジの株分けを続け、次々と福島区内の各小中学校や公園に寄付した。
昭和46年11月18日から20日まで、ライオンズクラブ主催、大阪府教育委員会大阪市教育委員会共催で、大阪市立玉川小学校の講堂で「野田藤展」が開催された。そこに『藤伝記』など史料・色紙・絵画など、約100点が展示された。
まさに、高速道路の下に埋もれようとしていた藤庵の庭は、ライオンズクラブの依頼で大阪市公園課の協力によって、昭和48年下福島公園の東側にそっくり移転され、昔ながらの庭園と藤棚が復元された。
昭和56年、小冊子『野田藤とその歴史』がライオンズクラブの手で刊行された。これは渡辺武氏が藤伝記を中心に、豊富な知見を加え野田フジの歴史を考証した労作である。刊末には「フジの育成管理の仕方」も記されている。

下福島公園に160本を始め、福島区役所前庭・区内11の小中学校に藤棚が作られ、フジの花が咲き出した。昭和56年「第一回野田藤祭り」が行われ、200人が参加した。ここで福島区の民謡同好会が、創作した「野田藤音頭」が藤棚の前にもうけられたステージで公開された。この頃から、区民の花として根付き始めた。

 

「野田藤展」の風景
「野田藤展」の風景
「藤庵の庭」(下福島公園)
「藤庵の庭」(下福島公園)

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