明治時代以降の野田の藤

明治時代になり大阪市が発展するにつれて、淀川の土砂堆積は明治時代になっても止まらず、海岸線は南の方へと遠ざかり続けた。明治時代初期は、野田付近は湿地帯で半農半漁村であった。米と共に菜種が栽培され、フジと共に花見客で賑わった。
明治18年6月から7月にわたる長雨で、下福島村で堤防が決壊し、東は長柄村、西は野田村、北は中津川堤防まで一大湖になってしまった。この水が引くと今までの湿地帯は流出土砂による平地となり、自然に地上げ工事が出来、現在見る野田付近の地勢が出来上がった。この後、段々家が建てられるようになった。
明治36年に書かれた『大阪年中行事』によると、江戸時代末までは大木に絡まり自然のままでのびのびと育っていたフジは、維新前に伐採され大部分は現在見られる藤棚に絡まり、一カ所にまとめて育てられるようになった。

昭和の初期までフジの古木は10株ほど残っていたし、「影藤」の伝説も残っていた。 しかし、第2次大戦末期の昭和20年6月1日の空襲で、「藤庵」と呼ばれた藤家の屋敷やフジの古木と共に大部分の古文書や書画骨董類も焼失した。この時、フジが棚ごと焼け落ち、黒く煤けた庭石、焼けこげたクスノキの大木、焼夷弾の油のにおいが漂っていた。その後、一時、一武のフジは蘇っていたが、昭和25年9月のジェーン台風で塩水を冠水し、樹勢は衰え花を咲かせなくなってしまった。昭和46年には阪神高速道路神戸線の工事に伴い、藤庵の庭のある家も立ち退きにあった。この時、最後に残っていた2本のフジの古木も、樹勢が古いため移植は困難と判断され切り払われた。藤庵の庭は、下福島公園に移され、春日神社境内には「野田藤の跡」の石碑が大阪市の手によって建てられた。こうして野田のフジの古木は野田玉川から完全に姿を消し、長い野田フジの歴史に終止符を打った。

戦前の春日神社
戦前の春日神社

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