藤野田村

江戸時代末期には、野田村の住民が自らの村の名前を「藤野田村」と称しており、また野田村と交流のある村々からも「藤野田村」と、親しみと敬意を込めて呼ばれていた。圓満寺(福島区玉川四丁目四番二五号)文書の調査結果から、その範囲は江戸の寺院、安芸の倉橋島など広範囲に及んでいる。藤の花の名前に「野田」という地名をかぶせ、後、村の名前に「藤」をかぶせたことになる。それほど村人は藤を誇りにしていたし、また野田が藤の名所であることが、自然な形で庶民の間に広く認識されていたことを示す記録である。「藤野田」の名前は大峰講の中に戦前まで残っていた。下の写真の石塔は、大正時代初期に「藤野田講」によって、京都府山崎の柳谷寺(柳谷観音)境内に立てられた多宝塔である。藤野田信心講の字が読みとれる。

山崎・柳谷観音境内に残る,藤野田講が大正時代に立てた多宝塔
山崎・柳谷観音境内に残る,藤野田講が大正時代に立てた多宝塔

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