時代と共に移り変わった「藤」の表現

万葉の時代は、藤は女性的な象徴として、和歌などに詠まれていましたが、藤が示す意味合いは時代によって変わっていたようです。

中世の和歌では、藤は藤原氏、松は天皇を寓意的に詠んでいました。
武士の世となった鎌倉時代以降、貴族(藤原氏)たちは「昔はよかったなあ~」との思いで、藤=藤原を賞賛していたようです。
以下の例では北の藤=藤原北家のことを示唆していると見られます。

「春の日ののどけき山の松が枝に千世もとかかる北の藤波」(二条良基)

また、「建武の中興」で天皇親政を目指しながら、志半ばで隠岐に配流された後醍醐天皇の第7皇子・宗良親王は野田の藤をテーマに父の志を次の和歌に詠み残しています。

「いかばかり深き江なれば難波潟 松のみ藤の波をかくらん」(宗良親王千首詠歌・春の部・187番目)

鎌倉時代~南北朝の頃の野田藤は、「野田の細江」と言われる細い入江にそって咲いていました。
(今の福島区大開のコーナン付近 -当時海岸だった- からJR野田駅を通り玉川まで長い入江がありました)。

この和歌はその景色を詠んでいるように見せて、実は「松」=天皇 のみが 「藤」=藤原 を動かしている、との意味で天皇親政を巧みに詠み込んでいます。

また藤原鎌足以後、天皇家を利用しながら政敵を次々に倒し政権を奪った藤原氏を周りの木々に絡みついて絞殺し自分だけが生き残る藤に例えている学者もいます。

中世以降の日本では、藤は政権を握るという執念に燃える藤原氏の象徴として貴族の世界に近い存在であったのです。

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