「野田の藤」のあけぼの

一般には野田藤が歴史に登場するのは、南北朝時代初期の「足利義詮の藤見物」とされています。 しかし史書を注意深く調べますと、その起源は平安時代末から鎌倉時代初期にさかのぼることが出来ます。

『源平盛衰記』には薩摩守忠度(ただのり)が難波の浦の名所を巡見した際、「里には長井の里、玉川の里とあるは、此に移り彼に見えて見渡して見給う中にも、難波の浦こそ古のこと思い出しつつ哀れなり」と記述していることから、源平の時代には既に、「玉川の里」は和歌名所として平安貴族に知られていたと思われ、平安貴族の間で、野田の藤が知られていたことを示唆しています。

鎌倉時代初期、時の太政大臣・西園寺公経(きんつね)は淀川河口をさかのぼった吹田に広壮な別邸を持っており、藤の季節には小船を浮かべて、野田郷をたびたび訪れ次の和歌を詠んだ。

難波潟 野田の細江を見わたせば 藤浪かかる 花のうきはし

静かな入江一面に影を落として咲く藤は、見事な光景であったであろう。 この風景は、容易に旅に出ることのできない、みやこの貴族たちの空想をかきたて、屏風絵にも描かれた。